今年(2016年)お正月。
息子(当時7才)が
義両親のお家へ「あけましておめでとう」の電話をすると
「待ってたよー♪」と
元気な声を聞かせてくれたお義母さん。
この日は特に元気で
いつもよりずっと長い時間
息子とおしゃべりしていた。
その数週間後。
一度も電話をかけてきたことのないお義母さんが
主人宛に電話をしてきた。
“明日から検査入院することになったので、その保証人になってもらいたい。” と。
3週間程の検査入院。
これまでも知らないうちに入退院をしたこともあるお義母さんなのに
今回は病院が違うから
事務書類も違うせいなのだろうか?
検査結果が出る前に
電話して様子を聞いてみると
検査の時(悪い)細胞を全部取ってしまったのか?
と思えるくらい大丈夫で
もう治ってしまったみたいだと。
それくらい元気な様子だった。
“特に大事に至ることはなさそうだ” と。
そんな内容だった。
ちょっと一安心。
更にその一週間後。
検査結果が出ました。
そこであり得ない現実をつきつけられた。
膵臓癌(すいぞうがん)
選択肢としては・・・
・手術
・放射線や抗癌剤による治療
・寿命まで痛み止めのみ投薬。
お義母さんの場合
手術は出来なかった。
お義母さんは自らの意志で
治療も行わず
痛み止めだけ服用することを選んだ。
これが2月の出来事。
3月に家族でお義母さんに会いに行った。
手編みの帽子をかぶっていた。
顔色はそれほど悪くなかったけど
立ったり座ったりが大変そうだった。
この時聞いた話。
2回だけ
抗癌剤治療を受けてみたそうだ。
副作用が酷く
食べるものも食べられなくなり
みるみる体調が悪くなってしまい
本来はあと何回か続けなければならない抗癌剤治療を
やめてしまった、と。
痛み止めのみの投薬に戻し
ようやく容態が戻ってきたところだ、と。
この日は
お義父さんから
これまでの経過と
今後どのようにしていくつもりでいるか
緩和ケア施設、
お義母さんがなくなった後の斎場のことまで
細かくいろいろ説明された。
お義母さんはお義父さんの説明を補足したり
時には笑顔を浮かべて
「そんな最後も良いかなーと思ってね。」
そんな言葉を発していた。
私たちは帰る時間になった。
お義母さんと別れるとき
何と声をかけていいかわからなかった。
もう次会えないの?
これが最後なの??
いやそんなことわからないよ。
余命数ヶ月って言われて
その後数年生きた人だってたくさんいるもの。
お義母さん、また きっと 次 会えるよね?!
心のなかで自問自答を繰り返す私。
私達が帰るときは
いつもお義父さんが駅まで来るま送ってくれるのだが
息子が生まれてからは
お義母さんも一緒に駅まで送ってくれるようになった。
でもこの日は
玄関先まで送ってくれるのが精一杯のお義母さん。
「また来ますね。」
玄関先でお義母さんに伝えた。
これがお義母さんへの最期の言葉。
お義母さんの表情は覚えていない。
一生懸命平静を装って
そう話しかけるのが精一杯だった。
6月に入り
入院したと連絡を受けた。
食事を摂ることはもちろん
水さえ飲めなくなったと。
入院し
点滴で栄養補給をしていると。
主人が日帰りでお見舞いに出掛けた。
全く食事を摂れないお義母さんであったけど
意識もはっきりしていて
普通に会話をしてきたそうだ。
6月22日朝7時
お義父さんから電話。
朝5時に義母の意識がなくなったと。
その日の午後0時40分
お義父さんから再び電話。
午後0時23分
お義母さんは永遠の眠りについた。
その瞬間は
ふっと優しい顔つきになったそうだ。
きっと何だかんだ言っても癌による痛みをいつも我慢していて
これでやっとその痛みから解放されたのだろうとの話だった。
そのとおりなのかもしれない。
最期の対面をしたお義母さんは
気持ちよさそうに寝ているようにしか見えなかった。